[Intermission02:星の海に君を想う]
どんよりと曇った夜空から落ちてきた雨が、路面を叩く。
泥水を跳ね上げて走っていた彼は、ふと立ち止まると空を見上げた。
砂色の髪が雨に濡れて顔に張り付いてくるのを煩わしげに払いつつ、後ろから聞こえてくる足音を確認する。
「…この調子なら、なんとか振り切れるかな」
独り言のように呟いた声に、雨に紛れるような囁き声が答えた。
「あの程度も振り切れないようじゃ、最初から逃げるなんて考えないことね」
声に少し遅れて、微かな足音が聞こえ…路地の暗闇の向こう側から声の主は姿を現すと、闇の中でなお鮮やかな紅い髪の下、琥珀色の瞳に薄く微笑みを浮かべる。
「あの狂犬娘の横っ面に一発喰らわせたんですってね、狙撃屋?アイザーマン主任は相当ご立腹のようよ」
「………」
無言のまま一歩後ずさった彼に、彼女は「別にキミを捕まえに来たんじゃないわよ」と言うと、そのまま彼の隣を無造作に通り過ぎる。
「……あんたも、抜けて…?」
「聞いても無駄よ。どうしようが、それはあたしの自由でしょう?あたしも、キミがどうしてそんな事を考えたのか、なんか知らないし、別に知りたくもないわ。…でもね?結局のところキミもあたしも連中からは逃げられないのよ。それでも行くの?」
しばしの沈黙の後、彼女は小さく溜め息をついた。
「ま、いいわ……お互い、生きてたらまた会えるといいわね」
闇に紛れて消えていく背中をしばし見送って、彼は再び雨の中を走り始めた。行く当てなどは無い…ただ、少しでも遠くに、少しでも街の奥に紛れ込むために、ひたすら走り続ける。
生ぬるい雨は、それでも放っておけば加熱していく身体を、少しとはいえ冷やしてくれる。まだ、大丈夫だろう。
高層建築物で覆われ、僅かにかいま見える空には濁った色が覗くだけの街にも、まだ太陽の光は届く。
東の空が明るくなってくるのを見ながら、彼は身を潜めていた物陰から立ち上がると周囲を見回した。
目視できる範囲にも、センサーで捉えられる範囲にも、人のいる気配はない。とりあえず、追手はどうにか振り切ったらしいと判断して、彼は小さく息をつく。
(少し、どこかで休まないとな…)
ここ一週間ほど眠っていないので、制御系にかなり負荷がかかっているはずだ。身体にも、抜けきらない熱が溜まっている。
休息を求めて悲鳴を上げるかのように視界の隅に踊る警告を振り払おうと頭を振って。一歩踏み出したと同時に襲ってきた、眩暈にも似た感覚によろめいた彼は舌打ちすると、近くにあった廃屋同然のビルの、路面すれすれに開けられた窓を無造作に蹴り破ると隙間に身を滑り込ませた。
埃っぽい薄暗がりに満たされた室内は、どうやら何かの倉庫らしい。家具や、何だかよく判らないコンテナなどが雑然と積まれた空間をざっと眺め、人の痕跡が無いのを確認して。
適当な隙間に身を潜め、そのまま彼は休眠モードを起動させると、くたり、とその場に崩れ落ちた。
意識を失う寸前、頬に触れた床の感触が冷たくて気持ちがいい、と思いながら。
目を開けると、そこに蒼い瞳があった。
こちらを覗き込んでくる、淡い金髪の少女。
「……!」
彼が身を起こした瞬間、少女は素早い動きで手近な物の陰に飛び込んだ。
大きな衣装箪笥の陰から、先の尖った耳が見え隠れしている。先程の身のこなしを見るに、どうやらニューマンのようだが、かといって訓練を受けたような動きではない。
「……」
不審な顔つきで少女がいるほうを伺っていた彼は、ふと傍らに落ちていた布に気付いた。
濡らしたハンカチ、のようなもの…どうやら、彼の額に乗せられていたらしい。
「……これは、キミが?」
「…………」
箪笥の向こうで、金髪の頭がこくん、と頷く。
(…まぁ、随分熱が溜まってたしな……病人か何かと間違えられても無理ないか)
そんな事を思いながらも、彼は一応「ありがとう」と声をかける。少し沈黙があってから、か細い声がした。
「……大丈夫?」
「え?……あ、ああ」
突然の問いに一瞬戸惑いつつも答えた彼の目の前に、ようやく少女はその姿を現した。淡い金髪、抜けるように白い肌、薄い蒼の瞳の少女は、薄暗い倉庫の中でぼんやりと浮かび上がるようにも見える。
「ずっと、呼んでも返事しないから、死んじゃったかと思ったの。そしたら、いきなり目開けるから……」
「驚かせちゃったみたいだな、済まない」
謝罪した彼に「ううん」と首を振る少女。
「私は平気。…お兄さん、誰?どうして、こんな所に来たの?」
聞かれて、彼は少し困った顔になる。
「俺は……」
自分が「何」かは知っている。が、「誰」かは分からない…彼には名前がないのだから。
「あ、ごめんなさい」
黙ってしまった彼の姿に、何か勘違いしたらしい。少女は、慌てたように口元に手を当てるとぺこり、と頭を下げた。
「私が先に言わなくちゃ、名前……私、ドミノよ」
「……俺はジェイルバード…ジェイルでいい。ここは…まぁ、ちょっと一休みしたくて来ただけだ。すぐに出て行くよ」
咄嗟に、彼は思いついた名前を口にする。籠の鳥……これほど自分にふさわしい名前もないだろう、と少々自嘲的に笑いながら。
「ドミノ…だっけ?キミこそ、なんでこんな倉庫に?」
「ここ、もう使わない物を入れておく場所なの。御主人が、私はもういらないって…」
泣き笑いのような奇妙な表情で答えるドミノ。
この星ではよくある、主人に飽きられた愛玩用ニューマンの末路の一つだ。人間の都合で生まれて、いいように利用された揚げ句、用が済んだら捨てられる。
「……だったら……キミも、来るか?」
彼の言葉に、驚いた顔をするドミノ……一方で、彼自身も自分の口から出た言葉に驚いていた。
何故、そんな事を口走ったのだろう?追われている身なのに、戦闘経験もない彼女を連れて、どこへ行けると言うのか?問い掛けに答えは出ないまま、それでも彼は再び口を開く。
「ずっとここにいるよりは、少しでも前に進んだ方がいいと思うよ…折角、生きてるんだから」
街を見下ろす窓辺で、空を見上げる彼女の髪を、吹き上げるビル風が煽る。
「あまり身を乗り出すと落ちるよ、ドミノ」
「大丈夫よ」
心配性なんだから、と笑う彼女は、改めて振り返るとにっこり笑う。
「おかえり、ジェイル。今日は随分遅かったね」
「ちょっとね」
言いながら、彼は上着の内ポケットから二枚の紙切れを取り出すと一枚をドミノに手渡した。
宇宙船の乗船チケットに似ているが、それとは違った書式で書かれた紙片に、ドミノは驚いたような顔で声を上げる。
「……これ…」
「そう、パイオニア2のチケット。乗りたいって言ってただろ?」
口元に笑みを浮かべ、彼は自分のチケットをドミノの目の前でひらひらと振ってみせた。
「苦労したんだぜ?高い金払ったのに、偽造IDが引っ掛かっちゃってさ、手続きに随分時間取られて。ドミノを待たせたらいけないと思って、役所のコンピュータ騙して終わらせてきたんだ」
にやり、と笑った彼に、「まぁ、ひどい人!」と言いながら、彼女もくすくすと笑う。
「そう言わないで欲しいな、もともとハッキングは苦手なんだから」
苦笑した彼の手からチケットを取り上げ、しげしげと眺めていたドミノが「あれ」と声を上げた。
「ここの名前、レオン=マクライルって……」
「うん、買ったIDの名前。向こうではハンターズギルドに登録しようと思ってたしね…そうすると、もう少しちゃんとした名前と身元がないと不便だから」
だからほら、と彼が指さした自分のチケットに書き込まれた名前を見て。
「あ、私の名前、ドミノ=マクライルになってる。あははは、私、ジェイルのお嫁さんだー」
屈託なく笑うドミノに、彼は思わず「…ドミノは、本当にそれでいいのか?」と尋ねる。
「それで、って?」
「…………だって、判ってるだろう、ドミノ……俺は………」
口籠る彼の顔を見上げて、もう一度、彼女はにっこりと笑った。
「大丈夫。貴方が何であろうとも、私は構わないよ。貴方は、私の傍にいてくれる…私の事、好きって言ってくれるもの」
街を見下ろす窓辺から、巨大な移民船を眺めながら。
「船を出しましょう 無数の星の海へ 夢と希望を乗せて 海へ出ましょう 遥かなその果てで 柔らかな日差しに包まれた 素晴らしきその地へ…」
パイオニア計画の公報で流されていたキャンペーン・ソングを口ずさみながら、彼女は小さな鞄に、それほど多くは無い荷物を次々と詰めていく。
久しぶりに取り出した銃を調整しながら、彼は聞くとはなしにその歌声を聴いていた。
元のメロディと、ちょっと外れているな、と思うが、言わないでおく。
そのくらいの事で、折角楽しそうにしている彼女の気分を壊すのも馬鹿馬鹿しいし、なにより、彼女が楽しそうにしているのを見るのが、彼にとっても楽しいのだから。
「いよいよ明日だね」
窓枠に腰かけ、パイオニア2を眺めていたドミノがこちらを振り返る。
「だね」
頷き、彼も微笑み返す。
「ラグオルの空は青いんだって…私、曇った空しか見たことないから楽しみ。それに、パイオニア2からは星が見えるんでしょ?」
「らしいね。俺もまだ見た事はないけど…」
というか、俺はドミノより年下じゃないか、と苦笑する彼に、屈託なく笑う彼女。
「私……凄い遠くに行くのね」
ふ、と笑いやんで。彼女は、まっすぐに彼を見る。
「こんな長い旅、初めてだから、ちょっと怖い気がする……けど、貴方がいてくれるから私、きっと大丈夫よ」
小さな部屋で、身を寄せあって眠る夜。ずっと繰り返してきた日常。
「………ジェイル?」
小さく囁く声に、答えはない。ドミノをその腕に抱いたまま、彼女が寝入るのを確認してから瞼を閉じた彼は明け方まで目覚める事がないから。
「…………」
そっと、ドミノは彼の背中に腕を回すと、その胸に頭を押し付ける。
いつの間にか、傍らで眠る彼のゆるやかな呼吸と、規則正しい鼓動を聞きながら眠るのが彼女の癖になっていた。
(人間って凄いよね、夢のためなら欲しいもの、何でも作っちゃう。…貴方も、そうだよね)
(…俺は、そんないい物じゃないよ。世界中に嘘をついて生きてくしかできない…嘘つきじゃ、誰かの希望になんかなれないよ)
(でも、私の事は、騙してないでしょ?)
パイオニア2を初めて見た時、そんな会話をしたのを、ふと思い出す。
こんなに温かいのに、このひとは人間じゃない。でも、そんな事はどうでもいい。
また、思い出が舞い戻ってくる。
(……私が欲しいから、連れ出したんでしょ?好きにしていいのよ、私は、そういうものだもの…)
(別に、そんなんじゃないよ。ただ…キミが、あそこに閉じこめられているのが嫌だ、って思っただけで)
色々な景色と、色々な会話と。
(おやすみなさいのキスくらい、してくれてもいいと思うんだけど?)
(…ごめん、ドミノ………それ……どうやるの?)
(………貴方、時々信じられないくらいにモノ知らないわよね………)
(解らない事はすごく多いよ。俺にとっては、全部、初めてだから…「自分」を持ったのも……こんな気持ちになったのも)
彼は、自分を外に連れ出してくれたひと。ちょっと口下手で、不器用で、でも、真剣に愛してくれたひと。
それで、充分。
「ごめんね、置いて行っちゃうような事して」
泣き笑いのような表情で、彼女は彼の耳元にそう囁くと瞳を伏せる。
「…おやすみなさい………愛してるわ、ジェイルバード」
次の朝、彼女は目を覚まさなかった。
一人で眺める部屋は、随分と広く見えた。
広大な移民船の中に広がる街を見下ろす窓に腰掛けて、彼女が見たがっていた星の海を見上げながら、彼は小さな声で歌ってみる。
「船を出しましょう 無数の星の海へ…」
小さなテーブルの上に、無造作に投げ出された封筒の束。一番上の封筒の中には、移民船の乗船チケットが2枚。
それと、小さな石の付いたネックレス。
「……見たがってた星空だよ、ドミノ……俺も、キミと一緒に見たかったんだぜ?」
呟いて、立ち上がると彼は封筒をもう一枚の封筒…ハンターズギルドからの登録完了通知と一緒にキャビネットの引き出しにしまい込んだ。
最後に残った封筒の中身は、総督府からの出頭要請状。
それをハンターズスーツのポケットにねじ込むと、彼は静かに部屋を出る。
ぱたん、とドアが閉じられた、薄暗い部屋の中。小さな、本当に小さな歌声だけがいつまでも響いていた。