[影より来たりて]
今夜は一つ月、それも三日月。
そろそろ、街からは人の姿が消えようとしている、そんな時刻。
高層建築物の屋上で、彼はライフルを手に地上を見下ろしていた。
その視線の先に、蒼い影。
それが蒼い装甲を身に纏ったヒューキャシールであると、かろうじて判別できる距離の差…だが、彼は迷うことなく引き金を引く。
相手の索敵距離を越えた距離からの狙撃。狙い違わず、標的の眉間を撃ち抜くはずだった銃弾は…しかし、寸前で上げられた掌の表面で弾ける。
「…くそっ!」
舌打ちし、即座に身を翻した彼が、スコープ越しの視界の中で最後に見た彼女は…まっすぐにこちらを見据えながら、笑っていた。
口角をくぅぅぅっ、と吊り上げて。空の三日月と同じ笑みを浮かべながら、歌うように唇を閃かせる。
……ミツケタ。サァ、オニゴッコ。ニゲテ、ニゲテ…ゼッタイ、ニガサナイカラ。
「やあ、ようやくお会いできましたよ、『狙撃屋』」
昼食を取るハンターズで賑わう、ハンターズギルドのラウンジで。
いつものように窓際の席でランチセットを食べていたジェイルの背後の席に座った赤毛のフォーマーは、振り向かないまま低い声でそう囁いた。
「貴方だと特定できるまで、随分苦労しました…最後に見た時から、随分と変わってしまわれてるんで」
「…嘘つけ、アダックスの三人からとっくに話がいってるくせに。相変わらず御喋りなんだな、『白銀の終笛』。だいたい、管理職がこんな所に来てていいのか?『仕事』もしないで油を売ってちゃ、怖いお嬢さんに怒られるぜ」
やはり振り向かないまま答えながら、ツナサンドを手際よく片付けていくジェイル。
内懐のヴァリスタは、いつでも抜ける体勢に入っている。相手もそれは判っているのだろうが、彼の言動にはいささかの変化もないままだ。
「これは厳しい事を。いやはや、貴方も言うようになりましたね」
コーヒーをすすりながら、魔術師は微かに苦笑したらしい。その口調は変わらないまま、言葉の温度だけが微妙に下がる。
「やはりキサラギ室長は良い仕事をされましたねぇ。その能力とテクニックジェネレータ、惜しいと言えば惜しいんですが…我々が必要としているのは何も考えない駒ですから」
「壊れたオモチャにゃ用無しって事だろ。いかにもエフェメラらしい判断だ」
「まぁ、そういう事です…ただ、用無しではありませんよ。貴方を必要とする方は、まだいらっしゃいましてね。我々は、その方に貴方に関する全権を委ねる事にしているので」
席を立つ気配。
「………貴方はもうすでに、エフェメラの所有物ではありません。あの時から、貴方の所有権はグレッグ・アイザーマン博士に移行しているんですよ」
とりあえず、ご連絡までに。
そう言い残して、空のコーヒーカップを乗せたトレイを手にジェイルの横を通りすぎた魔術師は、一瞬だけ彼の方を振り返るとその場を去った。
「何よ?アンタがそんな改まって頼みなんて」
「んー、そんな大した用じゃないんだけどね」
スピネルを前にキャラメルラテを啜りながら、口の端を少しだけ持ち上げるジェイル。
「俺の代わりに依頼片付けてくんないかな?ちょっと急用ができちゃってさ」
「何だ、そんな事?いーよ、別に大して忙しくもないし」
拍子抜けした顔で頷いた彼女の前に、彼は依頼票を差し出す。
「じゃ、これね。もう一人いるから、そっちの面倒もよろしく」
「あー、『引率』なの?この仕事。ふーん、ランク20のフォニュエール一人連れて洞窟か……あ、このルートだとナウラにおつかい?」
依頼票をひっくり返して確認しながら一人で納得しているスピネルの「で、この子は役に立ちそう?」という問いに、「たぶんね」とジェイルは答える。
「ランクとしちゃ不安だけど、まー自分の娘くらいは信用してやらないと」
「なるほどねー……………」
さりげない言葉に何気なく頷きかけて。
「ええええッ!?」
がばり、と顔を上げたスピネルに、
「何だよネル、そんな顔しなくてもいいじゃないか」
僅かに眉を寄せてジェイルは残りのキャラメルラテを喉の奥に流し込む。
「あー、いや、そうだけど。アンタに家族がいるなんて思わなかったし…え、養子か何か?」
「うんにゃ、れっきとした血縁関係」
「……なにそれ」
「まー、とりあえず明日はうちの子をよろしく頼むよ」
不審さ丸出しの相棒の疑問に答えず、彼はただ、へらり、と笑って見せた。
新興開発区域には、灯を点す街灯もまばら…深夜に差し掛かった街から、すでに人の気配はない。
その中で唯一、少しずつこちらとの距離を縮めてくるものがある。
一直線に、ゆっくりと、確実に。
「さすが兄妹…スペイドのヤツと行動パターンが一緒だ」
そんな事を言えるくらいにはまだ余裕のある自分に少し安堵しながら、彼は再度ライフルを構えて影に潜む。
自分の居場所を教えるも同然だから、遠距離走査は使えない…頼れるのは光学視界のみ。
僅かでも被発見率を下げるため、外気温と同じくらいにまで体温を下げ、呼吸さえも止めて。
獲物が現れるのを待ち続ける闇の中を、滑るように軽やかに、やって来るものがいる。
夜の中でなお鮮やかな青が、静かに、確実にこちらへと向かってくる。
(さっきの反応といい、前よりも速くなってるな)
また主任が手を加えたか、と内心呟き、予定していたタイミングを少し修正するジェイル。
この速度相手にマトモに渡り合う気は最初からない。懐に飛び込まれれば終わりだし、あまり離れすぎれば「見てから避けられて」しまう。
となれば。
また少し縮まった距離を数え。
彼女が更なる一歩を踏み出したその瞬間に、彼は周辺に仕掛けたデコイを一斉に起動させた。
相棒に比べれば申し訳程度の電子装備だが、それでも使い方次第でどうにでもなる。
ましてや、相手の事を良く知っていれば。
「……!」
全方位からの照準に、その足が一瞬だけ止まり…
「つかまえた。」
にいいいいっ、と口の端を吊り上げたネフェルは、真っ直ぐ正面…一番遠い反応目がけて加速する。
予想通り。
たとえ外しても片っ端から潰せる能力と自信があるからこその判断は、決して間違いでも過信でもない。
「でも残念、そこからじゃあ間に合わないんだ」
本来なら決して仕掛けない距離、自分のほぼ足下を高速で駆け抜ける青い影に小さく呟いて。
ジェイルは、勝利を確信した笑みを浮かべるその横顔目がけて引鉄を引いた。
予想外の方向からの予想外の一撃に、大きく吹き飛ばされ、頭から建設資材の山に突っ込みながらも。
「見つけたぁ」
即座に跳ね起き、衝撃で粉々になったフェイスカバーの残骸をかなぐり捨てて、ネフェルは剥き出しになった顔に猫のような笑いを浮かべた。
その横っ面を、立て続けに飛来する弾丸が再び張り倒す。
「uno,zwei,trei,quattuor,cinq………」
咄嗟に上げた腕で顔面を庇いつつも連続する着弾の衝撃に弾かれて宙を舞い…地面に叩き付けられる前に身体をひねって優雅に着地。
「seis,ok,tisa…10ッ!弾切れ、Check it OUT!」
弾数を数える声を残して、蒼い残像が一飛びに間合いを詰める。
今や完全に捉えたモノクロームの影目指してビルの壁面を駆け上がり、フェンスを引き千切りながらチェインソードを始動。
そのまま獲物目がけて叩き付けられたチェインソードは、しかし至近距離からの銃撃を受けて軌道を僅かに逸らした。
「あン、ズルいわ狙撃屋、ライフル以外持ってたら反則よ?」
半ばから吹き飛び、外装被膜の残骸でかろうじて垂れ下がる右手指を無造作に毟り取りながら、ネフェルは口の端を吊り上げて笑った。
「反則結構…そのくらいのハンデはくれてもいいと思うけど?」
間一髪で首を飛ばされる代わりに引き裂かれた頬に構う様子も見せないまま、ジェイルはヴァリスタを片手に僅かに口元を歪めた。