[#15/封 印 決 壊 。]
扉をくぐったその瞬間、吐きそうなほどの瘴気が吹きつけてきた。
「ぐ」
何とも言えない嫌な空気に、思わず眉をしかめるトリム。
「すごい濃度……まるで蠱だわ………」
隣のミィジェの顔色が青い。
「こんな中をリコは歩いていったての?流石というか何というか……」
握りしめた魔法杖を床に引きずるようにして歩きながら、血の気の失せた顔で、それでも彼女は苦笑して見せる。
が、トリムはあまり笑う気になれなかった。
『もう、どこかに逃げ出したい………帰る場所なんかないってのに。』
最後に拾ったメッセージ……諦めたような、笑ってるような。
大丈夫、まだ間に合う。追い付いて、ひとりじゃないって伝えられる。
そう信じて、トリムは黙ったまま歩を進める。信じてでもいないと、ここは余りにも絶望的な場所だから。
『…取り込まれるな、とある。実体を持たない闇は、己の依代を求めるため……と。ダーク=ファルスは言わば意思を持った力、この世界に干渉するには物理的な基盤が必要、ということか……』
『父さんに、会いたい。今まで迷惑ばかりかけてきたような気がする……今ごろどうしてるんだろう。』
『この星が危険と判ったら、パイオニア2だって降りてこないかもしれない……それでも、誰か来てくれるだろうか?……………どっちでも、いいか……………』
『誰も聞かなかったとしても、これは、あたしがここにいるという証明。今、あたしが生きている証。最後まで残そう、あたしがここを歩いたという証拠を』
彼女の残した彼女の声を、彼女が確かにそこを通っていった印を拾い集めながら、4人は進む。
誰も、何も言わない。
色の抜けた唇を噛みしめながら、覚束ない足取りで、それでも歩くミィジェ。
リコのメッセージをひとつ聞く毎に口数が少なくなり、今では完全に何も言わないR10。肩に担いだ大鎌の刃だけが、鮮やかな虹色に煌めいている。
ライフルを引きずって歩きながら、トリムはちらり、と隣の雪風を見上げてみた。
いつもと変わらないように見える横顔。
けれども、トリムは知ってる。彼が、少しだけ…本当に少しだけだけど、焦っている、と。
どんどん奇妙な明るさに彩られていくリコの声に、諦めるな、と言いたいのだと。
長い、果てしなく長い廊下の途中。
『もう戻れない。扉は開かれてしまったから…あたし達が開いてしまったから』
ぽつん、と置かれていたメッセージ。
『この星だけじゃない、この世界全部を無に帰すための式は動き出してしまった。…………今しかない。あれが……ダーク=ファルスが依代を手に入れる前に消滅させないと!』
メッセージが終わる直前、聞こえてきた軽い足音。たぶん、そのまま走り出したであろう彼女の足音は、遠くなる前に消えた。
「待って!」
もう追い付けないと判っていたけど。
それでも、その瞬間トリムは走り出していた。ミィジェもR10も、雪風も。
「まだ……まだ間に合うっ!」
お願い、間に合って!
祈りにも近い思いで扉を開けたトリム達の目の前に広がっていたのは、明らかに今までと違う空気と、その中で蠢く無数の異形たちだった。
「邪魔だぁぁぁっ!」
叫び声と甲高い不協和音は、トリムの真横から。
「どけ……!」
押し殺した叫びと龍の唸り声は、彼女の目の前から。
低い呟きは、後ろから。
そしてトリムの手元で、機関銃が唸りを上げる。
ここが最後の間だと、全員が判っていた。
これ以上はないという数の異形の群れ……その身体を削られながらも立ち上がるもの、両断されてもなお蠢き続けるもの、それらを喰らい、融合し、さらに数を増やしてくる闇の塊。
この奥に封じられるモノへの贄を求めて、異形達は沸き上がってくる。
「……………5分、ううん、2分、時間をくれるかしら」
杖を構えたミィジェが、ぽつり、と呟いた。
「ラフォイエにアレンジかけて吹っ飛ばしてやるわ……式を再構築するから、その間だけ食い止めて」
トリムを、R10を、雪風を順に見やり、彼女は「にやり」といつものように笑う。
「2分たったら、全員部屋から退避する……おっけー?」
「よっしゃ」
「おっけー。」
「承知。」
頷き、ミィジェを中心に背を向ける3人。
炎とフォトンのゆらめきの舞い飛ぶ中、口の中で低く呪文を唱え続けるミィジェ。杖を握りしめた右手が細かく震えるのを押さえ込むように、ポケットを探った左手はありったけのフルイドをつかみ出し、片っ端から注入していく。
フルイドの過剰摂取で限界まで拡大された意識容量を全て式の再定義に突っ込み、途切れることなく呪文を呟き続ける彼女の周囲で、空気が急速に熱を帯び、ざわざわと蠢き始めた。式の実行のための急激な消耗でたちまち色が抜けていく前髪の下、瞳孔の開ききった青い目に、それでも笑みを浮かべて。
ミィジェは、ありったけの声で叫んだ。
「証明完了ッ!」
「おう!」
応え、目の前の異形を薙ぎ払ったR10が、傍らのトリムの腕を掴んで駆け出し、雪風がその後に続く。
「ミィジェ、お前も……」
扉の前へと辿り着き、トリムをその奥に放り込んで言いかけたR10の声を振り切るように。
彼女は3人とは逆、部屋の中央へと向かって走り出した。
「みーさんっ!?」
悲鳴のようなトリムの声に、
「いいから扉締めなさい。………勘違いしちゃやーよ」
にやり、といつもの笑みを浮かべてミィジェは答える。
そして彼女は、最後の言葉を口ずさみ始めた。心の底から楽しげに。
「昔語りにありました、天より光降り来たり、悪しきモノを焼き尽くすため。決して見てはいけません、振り返れば塩の柱になるでしょう」
苗床を求めて群がる異形の爪が帽子を弾き飛ばし、真っ白に染まった髪の間から血が流れ落ち、長い耳の先を食いちぎられても、彼女は笑っていた。
何故ならこれで決まると判っているから。絶対の自信、それが術式における最高の定理。
キーワードを解き放つ。世界を変える公式の解を。
爆音は、聞こえなかった。
ただ、もはや音にすらならない衝撃だけが、扉を、床を、その場所そのものを震わせた。
ひしゃげた扉の向こう側は、何も残らない空白になっていた。
「ミィジェさんー!?」
R10が蹴り開けた扉の隙間から、トリムは部屋の中央、ミィジェが立っていたはずの所まで走って行く。
彼女はそこにいた。
ぺたん、と床に座り込み、ぼんやりと空を眺めていたミィジェは、足音に気付いて振り返る。
「…………ふふふ、どうよこれこそ一網打尽」
憔悴しきった顔のまま、やっぱり彼女はにやりと笑う。
「無茶するなぁ……」
全然変わらない彼女の様子に、思わず苦笑してしまうトリム。そんな彼女に「まーね」と苦笑で返して。
「や、無茶したわ実際」
あー疲れた、と呟きながらミィジェはポケットを探り、ポケットの中身が空っぽなのに気付いて軽く舌打ちする。
「あらやだ、クスリ切れか……じゃ、アタシはここでヤメるわ。」
「え!?」
思わず声を上げるトリム。
「そんな、ここまで来て何で!まだ間に合うよ、リコさんに追い付けるかも!」
「アタシは見たかっただけだもの。そんな物騒なものと戦いに来たんじゃないわ。まあ、そんなに気になるなら、依頼はここまで、って事にしとくからさ。後はトリムちゃんの好きなようにしていいわよ」
「そんな………」
何とも言えない笑みで言葉を続けるミィジェに、絶句するトリム。その肩にぽん、と手を置いて、R10が苦笑した。
「諦めろよでんこ。こいつぁ元々こういうヤツなんだから」
「ははは、さすが判ってるじゃん。どーせアンタも放っておけないんでしょ?彼女の事」
へらり、と笑ったミィジェに、「もう知らないっ」と言葉を叩き付けて、トリムは身を翻すと部屋の奥へと駆け出していく。
「…………」
無言でミィジェを見下ろしていた雪風が、微かに頷くとトリムの後を追った。
最後にR10が、「お疲れ」と一言残して二人に続く。
その背中が遠くなっていくのを見送りながら。
実を言えばいい加減身体を起こしているのも限界だったミィジェは、その場にぱたり、と倒れる。
「おつかれー、じゃないっての全く…まぁとりあえず気遣いさんきゅー、ってトコかな」
口の端に何とも言えない笑みを浮かべ、天井を見上げながら呟く。
「とりあえず疲れたし、寝ますかねぇ………」
爆発の衝撃でひしゃげた扉の奥に、それはあった。
暗い赤に輝く、光に彩られた扉。
「テレポーターに似てるな」
R10が、そんな感想をもらす。「だな」と頷き、雪風が傍らのトリムを見下ろす。
無言の問いに頷き、真っ直ぐ自分を見上げてくるトリムの頭に軽く手を置いて。彼は低く、だがきっぱりと呟いた。
「行くぞ」
「………え?」
ゲートをくぐった直後、目の前に広がる意外な光景に思わずトリムは自分の目を疑ってしまった。
「本当に宇宙船の中なのか、ここは……?」
やはり困惑した様子で、周囲を見回すR10。その目の前を、蝶が一匹、ひらひらと横切っていく。
そこには、見事な庭園が広がっていた。どこからか降り注ぐ柔らかい日差しに照らされ、かすかにそよぐ風に咲き乱れる花々が花弁を揺らしている。
そして、庭園の中央に配置されている巨大な石柱。精緻な彫刻の施されたそれを中心にして、庭園は広がっていた。
ふと、何かの気配を感じて、トリムは立ち止まる。
どこからか、誰かが……何かがこちらを伺っている。どこからとは特定できない、むしろこの庭園全てから見られているような、そんな感覚。
何だか急に落ち着かなくなり、きょろきょろと辺りを見回しながら歩いていたトリムは、だからそれに気付かず、思いっきり蹴飛ばしてしまった。
やけに軽い音を立てて地面を滑っていったそれは、小さな拳銃。今では珍しい、実弾を使った銃だ。
「……なんでこんな所にデリンジャー転がってるの?」
トリムが不思議そうにそれを拾い上げた瞬間。
「視線」の圧力が、急に強くなった。
「!」
3人の視線が、ほぼ同時に一点に集中する。その「視線」の出所、庭園の中心をなす石柱……いや、巨大な墓標に。
その直後。
石柱の表面、刻まれた文字にそって深い亀裂が走り、周囲の空間を巻き込んで一気に砕け散った。
鏡が割れた時のように、風景を閉じこめたままばらばらになっていく空間の中で。
トリムは何故かその瞬間確信していた。
自分たちが、間に合わなかったのだ、という事を。