[#19/封 印 壊 崩 。]
どこまでいっても続く、薄ぼんやりとした世界。
どれくらい歩いているのか、いや、そもそも歩いているのか。
いい加減うんざりしてきたトリムは、そこでふと目の前にうずくまる人影に気が付いた。
自分と、あまり変わらないくらいの少女。
「どうしたの?キミも迷子?」
「誰?」
鳶色の瞳を大きく見張って、少女は声をかけたトリムを見上げる。
「オレはトリム。キミは?」
「…………わかんない」
首を振って、少女は困惑したように眉をひそめた。
「わかんないの。ちょっと前まで知ってたような気がするんだけど」
振り下ろされる巨大な刃と、それを受け止める龍の剣。
幾度となく打ち合うたびに、虚空に飛び散る火花が周囲を照らす。
龍殺しの刃がダーク=ファルスの鱗をかすめるたびに、抜け殻のようなトリムの身体が不自然に跳ねる。
闇に囚われた彼女を背に庇うように、龍殺しを構えて立つ雪風が叫ぶ。それは、普段の彼を知る者が聞いたら驚愕するような絶叫。
「トリム……戻って来い、トリム!!」
その声は彼女を通り抜け、そして虚空に溶けて消える。
「…………?」
ふと、名前を喚ばれたような気がして、彼女は思わず振り返った。
………名前?
そういえば、自分の名前は何だったっけ?
「どうしたの?」
隣に座っていた少女が、こちらを見上げる。
「んー……なんか今呼ばれたような」
「誰に?」
問われて、再度彼女は考え込む。
誰が、呼んでいるの?
誰か。よく知っている誰か。
「えーと……」
確かに知っているはずのその名を思い出せず、彼女は頭を抱える。喉元まで出かかっている、その名前が、どうしても出てこない。
けれど。
「とにかく、オレの大事な人なんだ。オレの事、呼んでる……早くいかなきゃ」
そのためには、ここから出ないと。
出口を探して周囲を見回す彼女の手を、少女の小さな手が予想外の力で掴む。
「急ぐこと、ないよ。その人だったらたぶん、そのうちここに来るよ」
薄闇に覆われた不明瞭な空間で……虚無の主の懐で、少女のカタチをした『無』はそう言うとにっこり笑う。
「そしたら、ずっと一緒にいられるよ。お姉ちゃんの好きなひとと、ずーっと一緒に」
ダーク=ファルスの振り下ろした腕を幾度となく受け止め続けた龍殺しが、ついに高い音を立てて折れ飛んだ。
衝撃に、雪風が半歩後ずさる。
その半歩分の隙間、そこに転がるトリム目がけて、虚無の主は無慈悲な刃を振り下ろす。
「トリム!」
迷いも躊躇いもなく、半分の長さになった龍殺しを投げ捨てて。
雪風はトリムの正面へと飛び出した。
……ああ、またあのひとが呼んでいる。
「…………」
しばし無言のまま空を眺めていた彼女は、やがて少女に視線を戻す。
「あのひとね、いつも前しか見てないんだ」
ぽつり、と最初の言葉がこぼれる。
「後からおっかけてるオレの事、見てるのかどうかもわかんないんだよね。でもね、それでいいんだ」
薄ぼんやりとした世界に、小さな亀裂が入る。
「なんて言うのかな、自分が信じてる道が一本あって、その上をひたすらに突き進んでるの。一ヶ所に縛り付けてなんかおけないんだよ、あのひとは。で、オレはそれを見ているのが好きなんだ。後を追いかけて、少しでも力になれるのが嬉しいんだ」
誰よりも好きなそのひと、自分の事など省みずに己が道を進むひと……けれども、たった今、渾身の力で自分の名を叫んでくれたひと。
「オレはここにはいられない。アニキが……雪風が呼んでるから」
虚無の淵が、僅かに崩れた。薄闇に、微かではあるが光が差し込んでくる。
「それに、パイオニア2でみんなが待ってる。この星で何か始められる、って信じてる人がいっぱいいるんだ。その人たちのために頑張ってる人だっているよ……本当は行方不明の家族が心配で凄く辛いのに、それでも頑張ってる人が」
「だったら、私を殺しなさい」
うつむいたままトリムの言葉を聞いていた少女は……いや、すでにトリムよりも長身の女性の姿をした「それ」は、顔を上げると眼鏡の奥の鳶色の瞳を彼女に向ける。
「このチカラが世界を覆い尽くす前に、依代を消滅させなさい。核を失えば、行き場を失ったチカラは拡散する」
「そんな……オレたち、貴女を助けに」
言いかけたトリムの言葉を遮って。
「そう思うのなら、私を開放して。この暗闇の淵に、永遠に沈み続ける私たちを」
彼女の言葉に応えるように、その手の中に一挺の銃が現れる。
それは、古ぼけた小さなデリンジャー。
闇の封じられた庭園で、トリムが拾い上げたのと同じ銃。
銃把に刻まれた『R=T』のイニシャルを指先でなぞり、彼女はトリムの手の中にそっとその銃を握らせた。
「弾丸は一発しか入ってないわ。よく『視』て狙いなさい。………父さんに、よろしくね」
視界が、半分だけ戻ってきた。
左半分だけになってしまった視界を、黒い壁が塞いでいる。
………違う。
それはトリムの前に立ちはだかり、ダーク=ファルスの振り下ろした刃をその腕で受け止めている雪風の背中。
「アニキ!」
「………戻ってきたか」
肩先に半分以上食い込んでいる刃を、本来ならまともに動かせないはずの腕で押さえ込みながら。
ちらり、とトリムを振り返った雪風はそう言うと微かに笑う。
「無理しないで!オレなら大丈夫だから、だからっ……」
「構わん」
叫ぶトリムに、きっぱりと彼は答える。
「それより、お主の為すべき事を忘れるな」
雪風に片腕を封じられたダーク=ファルスがもう片方の刃を振り上げようとし……不意にその動きが止まった。
その巨体が、奇妙な方向へと歪んでねじれてゆく。ねじれ、歪んでいく力と元に戻ろうとする力との間で、闇の塊は軋んだ咆哮を上げ、虹色の火花を散らしてのたうつ。
『撃ちなさい、これを逃せばもう後はないわ』
耳元で囁く、彼女の声。
その声に小さく頷いて、トリムはデリンジャーを握りしめた左手を、真っ直ぐに上げる。
光を捉える事が出来ない代わりに彼岸へと通じる右の目で、闇の中心を…そこにいる「そのひと」を見据える。
そして彼女は、引き金を引いた。