[#18/眩闇(クラヤミ)の淵に身を投げすすり泣く女。]
「そんな……嘘でしょ……?」
呆然と呟くトリム。
「…………」
雪風は無言のまま、じっと崖の縁を見つめている。
「…………来るぞ」
不意に、彼はそう呟いた。
「え?」
顔を上げ、雪風を振り返ったトリムの背後で。
真っ白な光に似た、しかし明らかに光ではない……例えるならば、白い闇、としか形容しようのないものが噴き上がった。
それは、黄泉の国の全てを呑み込んで膨れ上がり、全てを白く染め上げていく。
時間にして、それはたぶん一瞬の事だったのだろう。
が、その一瞬で周囲は完全にその様子を変えていた。
泣き叫ぶ死者の顔は、もうそこにはない。
いや、大地そのものすら、そこからは消滅していた。
トリムの足下で彼女と雪風を支えるのは、青白く光を放つ巨大な方程陣のみ。その下にあるのは、全てを呑み込むかのような深い虚無の淵。
噴き上がる瘴気と煌めく闇の奥底から、軋んだ叫び声が上がる。
声の主が、眩いばかりの闇の塊が、深淵の奥底からゆっくりと姿を現す。
ぬめった鱗に覆われた虚無の主(その姿は禍々しく、醜悪で、そして、あまりにも美しい)はその背に光り輝く翼を羽撃かせると真っ直ぐに上昇、トリム達を正面に捉えた。
もはや、そこに囚われた者たちの姿はない。
全てを呑み込み、己そのものと変え、<世界そのものの反作用>であるチカラはついに現世へと溢れ出した。
「リコさん……!」
トリムの声は、もう届かない。
振り下ろされた刃を横っ飛びにかわし、着地よりも速く引き金を引く。
鱗の表面でフォトンの弾丸が弾け、細かい粒子になって虚空ににじむ。
更に迫り来るダーク=ファルスに喰らいつく龍の牙が火花を散らし、深い藍色をした鱗に複雑な陰影を描く。
不意に、ゆらり、とその輪郭をゆらめかせたダーク=ファルスから、手ごたえを失った剣を引き戻す雪風。色彩を失った鱗は背の翼の色を映して虹色に煌めく。
方程陣の反対側、剣の届かない距離へと退避したダーク=ファルス。その身体を通して僅かに透けて見える向こう側の景色に、道中で相手をした『魔術師』と、それに対するミィジェの解説を思い出して、トリムは叫んだ。
「アニキ、今は下がって!『向こう側』に本体を引き込んでるから、物理攻撃は無理だ!」
有効なのはテクニックか、またはそれに類したもの。
即座に雷撃式発動のスイッチを入れて、レールガンを連射するトリム。 弾丸は透き通った身体を通過していくが、発生した雷は確実にダーク=ファルスを捉えている。
しかし、テクニックと違って武器の出力そのものに効果を依存する攻性式では一定以上の威力を期待することはできない。決定打になるのは、やはり物理的なダメージだ。
おそらく、向こうも物理攻撃を仕掛けてくるためには『こちら側』に存在を移動させる必要があるはず……そのチャンスに、いかにして有効な攻撃をする事ができるか。
やや焦りを感じながらも引き金を引き続けるトリムの目の前で、虹色の巨体が真っ直ぐに舞い上がった。
同時に、ダーク=ファルスの周辺に高エネルギー反応を確認して。トリムは即座に踵を返すと全速力で方程陣の上を走り始める。
トリムが走り抜けた後の空間を、光の弾丸が凄まじい速度で通り過ぎていく。あと数秒遅ければ、間違いなく直撃していただろう。
「ふぅ……」
振り返り、思わず息をついたトリムの耳に飛び込んでくる、軋むような高音域で綴られた言葉。
それが彼女の知らない言葉による呪文だと、気が付いた瞬間。
光の柱が、真っ直ぐに天空から落ちかかってきた。
「トリム、大丈夫か?」
真っ暗な視界の中、すぐ傍で、雪風の声がする。
「な、なんとか…………」
装甲の一部が灼けているのを感じながら、トリムはそれでもしっかりした声で返事を返す。
「あ、反応が出た。ヤツが『こっち側』に戻ってきたね」
あまりの光量に一時的にブラックアウトした視界に頼るのはやめて、センサーからの情報に集中するトリム。
もちろん、引き金に指はかかっている。
頷いた雪風が大剣を構える気配。
風を切る音と軋んだ悲鳴と、自分の足音。
そして再び退避したらしく、ダーク=ファルスの反応が消える。
ややあって、視界に光が戻ってきた。
「………………あれ?」
目の前に広がる光景に、トリムは思わず声を上げる。
巨大な方程陣も白い闇も何もない、薄ぼんやりとした空間。
「なに、これ?」
周囲を見回し、ぽりぽりと後頭部を掻きながら「困ったな」とトリムは声を上げた。
「どっか飛ばされちゃったのかなぁ?」
嵐のような弾幕が、不意に途切れた。
弾切れか、と思うが、それにしては様子がおかしい。
「トリム?」
振り向いた雪風の視線の先。
彼女はぼんやりと立ち尽くしていた。
その顔からは、表情といえる物が消えていた。紫色の瞳に、いつもの光がない。
それこそ人形のように立ち尽くすトリムに、ゆらり、と近づいていくダーク=ファルス。
考えるよりも先に、彼はその前に飛び出すと龍殺しを振るう。
ぬめる鱗を切り裂く手ごたえがあったのとほぼ同時に、雪風の後ろで鈍い音がした。
続いて、何かが地面に落ちる音。
落ちたのは、トリムの右腕。鋭い刃物で切り裂かれたかのように、その顔の右半分にも深い傷が走っている。
そう、まるで大剣で斬られたかのように。
合わせ鏡、という言葉が雪風の頭をよぎる。
ダーク=ファルスが再び空間の向こうへと消える。それに合わせるかのように、立ち尽くしたままのトリムの身体が、不自然に痙攣した。
「トリム!?」
呼びかける声に、返事は返ってこない。